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わからないけれど

白昼夢をしばらく見ていない。
見れなくなってしまったのだろうか。
それともあっちの世界が好きだった自分は本当にあっちの世界に旅立ち
もう私は死んでしまったのだろうか。

一時の妄想に生きている。
現実はともすればうるさいくらいにがなりたてる。
人を妄想させないように集中を乱す雑音。
例えばそうテレビのような。

他人の妄想は触媒として使うものであり
それに浸りこんでしまっては逆効果である。
遊ばされるのでなく遊ぶ。
無意識でなく有意むむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむむ

「む」のキーが帰ってこなくなった。
小指が痛いのでタイピングがおかしくなってきた。

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一年前にかいた

http://t-2038.cocolog-nifty.com/octatetracontadiliahendro/2010/04/post-eb9e.html
このエントリが最近よく検索で引っかかっているらしい。

地震でそういう状態になるのは正常な反応だろうし
普通の人ならある程度の不安は抱えても大丈夫なので
何とかやっていけると勝手に私は思います。

上書いた人は地震関係なくその状態になったという
危ない症例ですが、その後病院の世話にもならず
むしろそれより怪しい状態をふらつきながらも
それでも一年後生きていますので。

人の心配より自分の心配したほうがいいんだろうか。
まあ今は眠い。

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twitterなみ

やけに攻撃的な嘘を書く人って何の使命を帯びているんだろう。

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とたんちょう

またblogが暗いと指摘されたので明るくしてみよう。

最近きちんと「諦める」ようにしようと努めている。
切れの悪い諦めをし続けてしまったので
その反省の意味を込めて、うん、よし、これで諦めよう。

諦めるの語源の通りに、もちろん自分で極められることなんて
たかが知れているけれど、それでも何かを見えるところまで来て諦める。
もともと執着するのは苦手だし。

でも、そんなこと別にどうでも良くて、という諦めではないように
気をつけるのがまた難しいんだとつくづく思う。
もう駄目だ、というところまでいけば簡単なんだけれど。
弱気でもなく強気でもないまっとうな諦めというのは
日頃たくさんやっているのに、意識すると難しい。

そのバランス感覚が中庸なのではないかと思う。

だから、これ、分かったら諦めていいよ、といってみたりする。

諦めないってのも理解できるようになりたいんだけれど
どうもそれは何か別の諦めからきているようで。
なんか大事なものを諦めたら
その埋め合わせが諦めのバランスとして働くのではないだろうか、と
思っているんだけれどそれは分からない。

私は幼い頃に高瀬舟を読んで未だにそのときのイメージが
頭に思い浮かぶことがある。
そして何故かそれとセットで山椒魚が出てくる。
山椒大夫ではない。井伏鱒二である。

ついでに言うと、私が、あ、これいい、と思う歌はト短調のものが多い。
やっぱり根が暗いのかもしれない。その辺どうなんだろう。

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みぎがわ

選挙だったので右手に歩く。
普段はうちを出て左側にしか行かないんだけど、
今日は選挙ついでに右縛り。

左が市内中心部に向かうのに対して
右はのどかな住宅街。
と思っていたが・・・
シャッター街化が進んでいた。

古い店はまだ残っているのに、
新しいマンションの一階が販売中とか
一年持たないとか、騙されたんじゃなければ
リサーチ不足にもほどがある。

とはいうものの、誰も困ってない。
普通にそこに生きている人はいる。
歩いている人も、若い人も。
ただ要らなかっただけか。

自分が無駄だと気づいていながら挑戦していたのか
それとも無駄じゃないと思ってくれる人がいることを期待していたのか、
頭では無駄だと分かっていたのに信じていなかったのか。

でも無くなった。無駄かどうかは分からない。
無駄だろうが無駄じゃなかろうが。

私の生きる立脚点がその無駄である。
投票が無駄かそうでないかはさておき。
そんな私の一票。

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そのまま

春なので景気の悪い話。

をかこうと思ったけど辞めた。どうでもいいし。

テレビも見なくなるとかなりどうでも良くなるように
携帯も持ち歩かなくなるとかなりどうでも良くなるなぁと。
最近あまり持ち歩かなくなった。

しかも意識していない。
帰ってきたらクレイドルに置きっぱなしだった。
前はたまにそういうことがあったけれど、
ここ数週間だと10回以上。

一度持ち歩かない習慣になると駄目だね。
テレビは最低限ニュースは気にするようにしてるけど、新聞も読まないので
その手のお話がさっぱり分からない。

最近、何か狭いところにずっと押し込められたいという
願望のようなものがあるんじゃないかと思いつついる。
ちょっと試してみようかな。

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キャベツ

偶然通りがかった事故現場にキャベツが落ちていた。
これはゲームでは許されるのだろうかと。
リアルなら許されるのに。

ゲームで事故現場にキャベツがあった場合そのキャベツに意味が無いといけないとされる。
そしてその意味はゲームに関わってくる。
リアルではそれに意味はあったとしても関わってくることはほとんど無い。

ゲームは抽象化されたリアルであるべきなのだろうか。
ゲーム意味論に飼われた世界からプレイヤーは抜け出せないのだろうか。

否である。

むしろ危惧するのはリアルを抽象化されたリアルとしてしか認識できず
提示されたすべてのものに自分に関わる意味があると信じてしまうことかもしれない。
そして捨象されたものに意味を感じられなくなる。

何の必然性があってキャベツがそこにあるのかを問われたときに
リアルもゲームも同じ解答が与えられる時代は来るのだろうか。

遠からず来るのではないかと思われる。

それは抽象化を超えてしまったゲームの超現実なのか、
抽象化されたものしか存在しなかったリアルの残滓なのか。

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ひとりえいが

見たい、と思ったのは何故か分からないけど
かなり昔のことだったように思う。
そんなわけで今日は一人、英国王のスピーチ。

久々に映画らしい映画を見た。
安定した構成とドラマツルギー。キャラクターの立て方。
史実を基に作っているうえに題材が国王ということもあり
かなりの制約があったとは思うけれど。
ギリギリ駆け足なところがあって、その中で
出し切るのが難しい部分も見えていたけれど。

第二次世界大戦って、たかだか70年前のことなんだよね。
近いような遠いような・・・
それであの無線設備か。
すごいというのか進歩の速さが怖いというべきか。

見たいと思った映画を見ることが出来る幸せ。
そして良いものにお金を払うことが出来る幸せ。
映画っていいな。

ちょうど自粛ブームのおかげで
家にあるゲームチェックしてもう一度やりたいものをピックアップするように
映画もふらっと見たいものを見て行きたい。
そんなくらい。

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ことしは

嘘よりもマジで?っていうことが多い日だった。
いやここまで予想裏切られるとは。

ま、別に関係ないか。誰だろうと。
変わらずに自分にやれることをやるだけ。
ポジティブでもなければネガティブでもない。
ちゃんと。

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