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ゆとりがどこから始まったか

ゲームの話。

ゆとりがどこから始まったかは論を待たないが、ここで確認するべく
まとめておく。

学ばなくなったところから始まった。

学ぶと真似るが同語源であることはよく知られているが、
その分化の過程についてここで書かなくても、
学ぶという行為は、まずそこに何か「学ぶべき対象」がある。
真似られる対象なくして学ぶことは出来ない。

学ぶこと、あえて言えば真似ることへの蔑視

われわれ自身が親のコピーであることを否定する
まるで思春期のガキのような、浅はかな時代。
「個性」とか「オリジナル」を尊重ではなく崇拝し始めた。
崇拝される側が勘違いするまではまだよかった。

一人では高みに行き着けないという諦念

全く学ばないでも生み出すことは可能だろう。
無生物の動きに美を感じるものもいるだろうし、
何をして生み出したといえるのか、は観測者に依存するだろう。
しかし、学ばずに行き着ける高みなど高が知れている。

「真似でしかない」より「真似ですらない」は上なのか。

守りに入った「オリジナリティー」がまだ真似る価値があるうちに
学ばねばならない。
クソみたいにたくさんのコピーを生み続ける人間が
生き延びられるとしたら、学ぶことしかない。
学ぶ機会を奪おうとする「死人」と戦う力は、
並大抵ではないのだけれど。

守られて当然なのは未来であり、その糧としての過去である。

俺たちは死ぬ。そんなに先のことじゃない。100%間違いなく死んで
そしてほとんどが失われる。肉体だろうがなんだろうが。
キリストだろうが孔子だろうが、死後今に至るまでどれだけ「残って」いるのか。
果てしなく改変され、勝手に付け加えられ、適当に作り変えられた。
そして奴らは我々の糧になっている。今でも。
奴らがそんなふうになりたかったかも分からんが。

つまりゆとりとは「思而不學則殆」である。

完全ではないコピーの変化はほとんど劣化に過ぎないが、

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